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...and bitter


一日酷使した体を、滑らかな泡が優しく包む。
肩まで浸かっても熱すぎない、かといってぬるくもない温度は、全身の筋肉を
ゆっくりと弛緩させ、落ち着いてバスの香りを楽しむことができた。
カミツレのエッセンスは、子供の頃の記憶を呼び覚ます、青い林檎にも似た
安らぎのアロマ。
彼女は時々、バスルームの灯りを消し、小さなキャンドルを灯して入浴した。
そうして、母の胎内で眠るような心地で、その体を温もりに委ねる。

湯から上がり、シャワーで体を洗い流すと、インテグラは白いバスローブに袖を通した。
腰まであるプラチナの髪はタオルでぬぐい、軽く水気を吸わせ、そのまま。
髪に負担がかかるからドライヤーで軽く乾かした方が良いと、子供の頃メイドに言われた
気がするが、彼女はいつもそのままだった。肌の手入れなども、随分うるさく言われた頃も
あったような気がするが、特に何もしていない。(執事がそれを嘆き、時々フォーマルで
外出しなければならない折などに、強引にエステティシャンを家に呼んでケアさせていた。)
だが、ただ一つ、ブルガリア産のローズ・ウォーターをローション代わりに使っていた。
最高級のダマスク・ローズから蒸留されたという、大層シンプルなもので、嫌みのない、
それでいて幽かな香りが残る。華やぎながらも、その慎ましさが気に入っていた。

バスルームを出ると、部屋の灯りは小さなルームランプのみだったが、
バルコニーから差し込む月明かりが、室内を照らし出していた。
あまりに明るいので、インテグラは窓辺に歩み寄り、空を見上げた。
すると、磨き上げた銀の皿のような月が中空に浮かび、彼女を見下ろしていた。
月に誘(いざな)われるように、彼女はバルコニーに出ていた。
もう秋が近いが、風は涼やかに彼女の頬を撫ぜる。
そこに置かれた小さな緑青色のテーブルセットに彼女の最良の友――
酒のグラスと煙草を載せ、インテグラは椅子についた。今宵はストレートのウィスキー。
赤ワインも良いかと思ったが、ついついピッチが早くなるのでやめた。
充分に食事を取っているとも言えず、体調的にも、あまり深酒して良いわけはないと、
一応彼女自身、分かってはいた。だが、少しでも飲まないと、眠れそうにもない。

琥珀色の液体を口腔内に流し入れると、煙草の吸いすぎで、少ししみた。
だが慣れっこなので、特に気にならない。ほとんどカラの胃袋に、熱い火が降りてゆく。
彼女は深く息をついた。
目の前に広がるのは、敷地内の木々。宵闇に月光を受け、重なり合う影が揺れる。
この光景はずっと変わらない。父が生きていた頃も……その以前からも、きっと。
インテグラは、長い髪の先を、指に絡ませた。
普段、男のような服装に身を包み、その唇に紅を引くこともない彼女が、
何故髪だけは長く伸ばしているのか。
“別に、女を捨てたとかいうわけじゃない”
彼女は、心の中で呟いた。あまりそういう風に考えたことはない。
色気付く年頃を迎える前に、このヘルシング家の重い血の十字架を背負う身となった。
それだけのことで、彼女自身、自分が特別何かを犠牲にしているという気はなかった。
他の生き方というものを、知らないのだから。他の可能性があったのかすら、分からない。
インテグラは、顔立ちは母親の面影を受け継ぎ、また肌の色も父とは違っていた。
父から譲り受けたのは、深く澄んだ湖のような瞳と、蜂蜜色の髪。
――髪は、彼女の父親との絆。父の存在を、身近に感じられるのは、
今となってはそれだけだった。

不意に孤独が忍び寄る気配がして、彼女は葉巻に火を点けた。
月に吸い上げられるように煙が立ちのぼると、父親と同じ香りが、彼女を包んだ。
かつて彼女を、その大きな手で抱いてくれた……父の香り。
また酒を口に含むと、ホッとしたことも相まってか、少し体温が上がる。
インテグラは葉巻を置くと、皓々(こうこう)と照る月を見上げ、背もたれに体を預けた。
それと意識していたわけではない。だがそう考えてみると、彼女は必死に父親と
同化しようとしていたように思われる。煙草も酒も、初めは苦いばかりで、
楽しめるようなものではなかった。だがいつしか、それらは彼女の良き友となり、
不安や迷いを支えてくれるようになった。
精神的には、彼女はまだまだ自立しきれてはいない。体調を崩したりすれば尚更、
不安に心が揺らがされ、父との絆を求める。――この状態を、親離れができていない、
と言うのだろうか。インテグラは苦笑し、そっと目を閉じた。

娘はいつしか、父の面影を持つ男性を捜すという。自分もそうなのだろうか? 
だが、そんな人間が、そう易々と自分の前に現れるわけがない。
あの父のような存在など――
大体、夫となる者に父の面影を求めるなど、何だか不道徳な気がする。
ボンヤリとした酔いが思考を包み、インテグラは自らのまとう幽かな薔薇と、
そして葉巻の香りに抱かれた。

* * * *

下腹部に鈍い痛みを感じ、インテグラは眉をひそめた。
ふと、目を閉じていても感じられた、あの明(さやか)な月の光が翳ったことに気付き、
そっと眼を開ける。雲が……月の顔を隠したようだった。先ほどよりも少々風が出て、
その雲もまた、すぐに流され、切れ間から光がこぼれる。
「――酔狂だな、我が主(あるじ)
月光を受けた、闇色のシルエット。バルコニーに寄りかかるように佇むその影に、
インテグラはハッと体を起こした。
「月の狂気に迷わされたのか?」
また少し雲が流れ、わずかに面(おもて)が浮き上がる。その……薄嗤いを浮かべたような、
皮肉めいた口元。
インテグラは灰皿の葉巻に目を落とす。灰の具合から、意識を失っていたのは、
ほんの数分だと分かる。煙の立ち上る葉巻を、トントンと押しつけて、取りあえず火を消す。
「お前の知ったことではない。――悪趣味だぞ従僕」
(とが)めるように、けれど自らの内の疚(やま)しさは押し隠して女主が言うと、
「主が無防備に、月の魔性になど身を委ねているからだ。こんな宵は夜族(ミディアン)
 好んで闊歩するということを、知らぬお前でもあるまい?」
「確かに。取って食われそうな美しさの月だな」
不覚にも隙を作ったのは自分なのだから、インテグラはそれを認め、溜息をついた。
そしてグラスに残ったウィスキーを、気付けも兼ねて飲み干す。
「取って食われても良い……そんな風に思ってしまうような夜だ」
カタン、とグラスを置くと、そう呟いた。
「お前らしからぬ言葉だな、インテグラ。奇妙なこともあるものだ」
従僕は何を考えているのか読み取れぬ声音で、だが先刻のような皮肉の色は、
感じられなかった。だが――
「随分と不安定なようだ。その心も、躯(からだ)も。……まあ、ろくに食事もせずに、
 酒ばかり食らっていては無理もないが」
「うるさい」
相変わらず従僕は、主に向かって容赦のない言葉を投げつける。
全部、本当のことなのだが。だから尚更に、腹に据えかねる時がある。
「それはそうと……」
次は何を言うつもりだとインテグラが身構え従僕を苦々しく見ると、しかし彼の口元に
浮かんでいたのは、皮肉ではなかった。深い、穏やかな、しかし艶を含んだ低い声。
「変わった夢を見ていたな、我が主」
「――なに?」
従僕の口から出た言葉に、インテグラは、胸に針が刺されたような痛みを感じた。

雲が、流れる。
そして闇色の中から、紅い双眸が浮かび上がった。
「自分の父親と戯れるとは。或る意味、処女らしい夢想だが」
「……馬鹿なことを!」
まさか、そんな……と、インテグラは顔を背けた。良く覚えてはいない。だが、もしかして――
「変わってはいるが、別におかしなことではない」
揶揄を含んだ声ではなく、静かに続く従僕の言葉を、しかしインテグラはキッとにらみ返す。
「太古より息子は母親に、娘は父親に夢想するものだ。たまたま躯がそれを求める時期
 だったというだけのこと」
「お前は心理学者か? 無用な詮索だ」
「恥じることはない。――いつものことだろう。我が主は、満月の頃にケモノに近付く。
 だがそれは、女の躯であるというに過ぎない。自然の理(ことわり)だ」
自身の体調の周期についてほのめかされ、インテグラは唇を噛んだ。
従僕が、一歩、また一歩と歩み寄る。近付かれるのを拒否するように、インテグラは
立ち上がり、バルコニーの横まで数歩、歩いた。従僕に、その背を向けて。
何よりも、顔を見られたくなかった。どんな顔をしているのか、自分でもよく分からない
不安感があった。
「まだ髪が濡れいている。風邪を引くぞ」
彼女の髪の先を、従僕がその指にからめた。
「寒くはない」
インテグラは無感情に言い放った。
「確かに。熱いようだな……インテグラ」
長い髪が、少しずつ、少しずつ巻き取られてゆく。
「人間とはおかしなものだ。欲望が高まるのは己が咎(とが)ではなく、
 単に潮の満ち干と同じく、月に支配された現象であるだけだというのに。
 それを恥じて隠そうとする」
「違う。それが人間と獣を分けるものだからだ。恥じて隠すのではない。
 それが慎みという、人間ならではの美徳だ」
「慎み……か。我が主、お前の葉巻と酒は、欲望の代償行為だな。
 慎みとやらを保つために、随分と消費が激しいようだが。
 ――私としては、あまり血が不味くなるようなことはしてほしくない」
「それ以上無駄口を叩くと……!」
こいつの挑発になぞ乗ってたまるかと、できるだけ冷静を装っていたインテグラだったが、
いい加減に堪忍袋の緒が切れ、手が上がった。……が、当然その右手は従僕の左手に
掴まれ、岩にくくりつけられたかのように動かない。
鬼を殴ろうなど、人間の身でナンセンスなのは明白。だが彼女は、ひどく苛立っていた。
仕方がない、そういう月の周期なのだから。従僕も、それを分かって彼女の機嫌を
逆なでするような発言を、しつこく重ねているに違いなかった。
「もっとも……」
まだ女主の髪を巻き付けていた右の人差し指を、その香をかぐよう口元に運ぶと、
従僕は婉然とした笑みを浮かべた。
「そのくらいで風味が損なわれる血ではないがな」
一瞬、インテグラはその微笑に魅せられた。これは、魔性のもの――たとえ瞬間でも
ココロの隙を作れば、そこに忍び込んでくる。そういうものなのだと分かってはいたが、
躯の内に、抗しがたい疼(うず)きがざわめいた。既に右手は離され自由を得ていたが、
何かに縛られたように、身動きは取れなかった。
「やめろ……化け物」
振り絞るように、インテグラは言った。だが従僕は、彼女の耳元に唇を寄せ、尚も囁く。
「我が主。おまえのその美徳とやらは、私にとっては何ら興味のないものだ」

* * * *

――カチッ。

従僕の口元が、愉悦にゆがんだ。
「……飼い犬の分際で、調子に乗るのも大概にしろ」
意志の力で魔の呪縛(いましめ)を解いたインテグラの手は、ポケットの中の拳銃を握り、
銃口はそのまま、目の前の化け物の胸に突き当てられていた。この従僕に対し、
そんなものが小石の礫(つぶて)ほどの力も持たないことは、分かっている。
だが彼女が護身用の銃を、常に肌身離さず身につけていることは、
従僕も初めから知っていたはず。
「本当に悪趣味だな、お前は」
従僕がその体を離すと、やっと息が付けたように、インテグラは肩を落とした。
そして、バスローブのポケットの中で握られていた銃の安全装置をかけると、
そっと手を抜いた。顔にかかった髪をかき上げると、
「今宵の月に免じて、咎め立てはせん。……私が迷わされたように、
 おまえも月に惑わされたということにしておく」
「寛大なことだ」
「化け物相手に隙を見せる方が悪い」
「……流石は、我が主」
従僕は、主と自分を繋いでいた金色の髪を、ゆっくりと指からほどいていった。
完全に二人の間が離れると、インテグラはテーブルセットに戻り、先ほど火を消した葉巻に、
再度燐寸(マッチ)を擦り、火を灯した。緊張が解けた後の一服は、格別に感じられた。
夜気に当てられ、少々しけ始めていたが。だから、気持ちが落ち着いたらすぐに消した。

もう月も、天空から傾き始めている。インテグラは、一気にだるさを感じ始め、眼を細めた。
いい加減、体が冷えてきた。腰の辺りも、重い。
「インテグラ」
テーブルの上もそのままに、従僕には一瞥もくれず室内に戻ろうと硝子戸に手をかけた
インテグラに、従僕が言った。
「――おまえの父親は、おまえの血の中に生きている。……人間(ヒューマン)とは、
 そういうものなのだ」
思わず彼女が振り返ると、もうそこに、従僕の姿はなかった。

「……なんだ、アイツ」
結局何が言いたかったんだ……と、溜息。ただ、からかいにきたのか。
きっとそうに決まっているが。
“私の……血の中に”
首筋に手を当てると、触れた髪が、ひんやりとする。
――闇に姿を消した従僕の言葉が、また聞こえたような気がした。
だから……独りではない、と。

インテグラは、冷え切った自分の髪を体の前に持ってくると、月の光を受けて輝く
その色を見つめ――そのままそっと、胸に抱(いだ)いた。



9.21.2003.

エロそーなふりして、ちーっともエロくない話。あーもう、グラ様の入浴シーンなんて描くつもりなかったのに
妙に長くなるし、いつのまにエレクトラ・コンプレックス発動だし、いつまで経ってもアーカード登場しないし……。
あ、葉巻を切るシーンナシに火付けてますが、突っ込まないで下さいね。酒と煙草持って外に出る時点で、
何かマヌケな絵面だなあと思っていますので。やっぱり久々に話書くと難しいデスー。
一応、sweetと同じ日の話。でも、繋ぐとエラく長くなるので、別な話として書きました。


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